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2009/09/29 Tuesday 11:03:20 JST |
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フトバ集より(ザカート:その1)
ザカートの必要性
イスラームの兄弟の皆さん!礼拝の次にイスラームで重要な柱はザカート(ザカー:喜捨)です(注:「六信五行」の「五行」をイスラームでは「五本の柱」と呼ぶ)。一般にイバーダト(イバーダ:崇拝行為)において礼拝の次には断食が来るので、礼拝の次(重要なの)は断食だと思われています。しかしイスラームにおいて礼拝の次にはザカートが何より重要である事がクルアーンから分かります。これら2つの柱(「五行」の中の「礼拝」と「ザカート」)の上にイスラームが成り立っているのです。これら2つがはずれたらイスラームは成り立たなくなってしまいます。
ザカートの意味
ザカートとは「純粋さ」や「清潔さ」という意味です。必要としている人(経済的に困窮している人)のために自分の財産の一部を出す事をザカートと言うのは、(ザカートを出す事によって)私達の財産、そしてその財産と共に自分自身のナフス(自我)も浄化するからです。神の許された富から神のしもべの権利を出さない者の富も不浄ですし、財産と共に彼の自我も不浄なのです。それは彼の自我が神の恩恵に対して恩知らずの心で満ちているからです。彼の心はあまりにも了見が狭く、わがままで、拝金主義者すぎて、最低限に必要な以上に富を与え彼に恩恵を与えられた神の恩恵の権利(その恩恵の「恩返し」をするために神に定められた方法で「金の浄化」をすること)を行使しつつも、彼の心は(他人に与えるのはもったいないなぁ、と)痛むのです。このような人物に、この世で神の為に何か善行をしたり信仰のために何か犠牲にすることに耐えられるだろう、などという望みがもてるでしょうか(そんなことこのような人物にあり得ないでしょう)。だからこのような人物の心も不浄で、このようにして彼が貯めた富も不浄なのです。
一つの試練であるザカート
至高のアッラーはザカートという義務を与えて一人一人を試練に向かわせます。喜んで自分の必要以上の富から神の権利(ザカート)を出し神のしもべを助ける者こそ神の役に立つ者です。そして彼こそが敬虔な者達の集団(の仲間)に数えられる価値のある者です。そしてこの世の主(である神)のためにほんのちょっとの犠牲ですら我慢することができないほど心の狭い者はアッラーの役に全く立たず、信仰の人々の集団に加えられる価値など決してないのです。このような者は、身体から切り離さないと身体全体を腐らせてしまうような一つの腐った体の一部なのです。預言者ムハンマドSAWSが亡くなった後アラブのいくつかの(以前にイスラームに入信した)部族がザカートを出すことを拒否した時、「偉大なる真実の人(=一代目カリフのアブー・バクルRAAのこと)」は、これらの部族の人々が礼拝をし神と預言者(を信じることを)公言していたのに、まるでカーフィル(不信仰者)に挑むようにこれらの部族と戦いました。このことから、ザカートなしに礼拝・断食・信仰告白は無意味で、どの行(「六信五行」の「五行」)も信頼できません。
全ての預言者達のウンマ(共同体)にザカートは義務
聖クルアーンを手にとってご覧なさい。古代から全ての預言者達のウンマ(共同体:その預言者を中心としたグループ)に礼拝とザカートの命令は必ず与えられていました。そしてイスラームはどの預言者の時代でもこれら二つ(礼拝とザカート)がない、ということはありませんでした。イブラーヒーム(彼に平安がありますように)と彼の子孫の預言者達について(アッラーはクルアーンの中で)おっしゃった後、こうおっしゃっています。
われはかれらを、わが命令を奉じて(人びとを)導く導師とし、かれらに善行に励み、礼拝の務めを守り、定めの喜捨をするよう啓示した。そしてかれらは一生懸命にわれに仕えた(クルアーン第21章「預言者章」第73節)
イスマーイール(彼に平安あれ)に関してクルアーンの中でおっしゃっています。
かれはいつもその一族に、礼拝と喜捨を命令し、主の愛される一人であった(クルアーン第19章「マリヤム章」第55節)
ムーサー(彼に平安あれ)は自分の民のために「おぉ神よ、私達をこの世の良き事もお与えください、そして来世の良き事もお与えください」とドゥアーをしました。これにどう至高のアッラーがお答えになったかご存知ですか?こうお答えになりました。
「われは、自分が欲する者に懲罰を加える。またわれの慈悲は、凡てのものにあまねくおよぶ。それ故われは、主を畏れ、喜捨をなし、またわが印を信じる者にそれを授けるであろう」(クルアーン第7章「高壁章」第156節)
現在もユダヤ人がそうであるのをあなた方がご覧のように、ムーサーの民は心が小さく金に命をかける民でした。そのため至高のアッラーは偉大な預言者のドゥアーの返事として、お前のウンマがもしザカートを遵守するなら彼の民のために我が慈悲を約束しよう、さもなくば、今からよく聞いておけ、(お前の民は)我が慈悲を得られないだろう、そして我が災いがお前の民を囲むであろう、とおっしゃいました。このようにしてムーサー(彼に平安あれ)の後も繰り返しイスラエルの民にこのことに関しておどしすかされてきました。アッラー以外に何ものも崇拝しないよう、そして礼拝と喜捨を守るように何度も彼らを誓わせられました。最後にははっきりとこのように警告されました:
・・・そしてアッラーは仰せられた。「本当にわれはあなたがたと一緒にいるのである。もしあなたがたが礼拝の務めを守り、定めの喜捨をなし、われの使徒たちを信じて援助し、アッラーによい貸付をするならば、われは、必ずあなたがたの凡ての罪業を消滅し・・・(クルアーン第5章「食卓章」第12節)
アッラーのみ使い(ムハンマドSAWSのこと)以前の最後の預言者はイーサー(イエス・キリスト:彼に平安がありますように)でした。そして至高のアッラーはマリヤム章にあるように、礼拝とザカートを一緒に命じました:
またかれは、わたしが何処にいようとも祝福を与えます。また生命のある限り礼拝を捧げ、喜捨をするよう、わたしに御命じになりました(クルアーン第19章「マリヤム章」第31節)
このことより、イスラームは初めからそれぞれの預言者の時代に礼拝とザカートという大きな柱の上に立っているのです。そして神を信じるどんなウンマ(共同体)をもこの二つの義務(礼拝とザカート)を免除なされたことはなかった、ということが分かります。
ムスリムのウンマにザカートの義務
預言者ムハンマドSAWSのシャリーア(イスラーム法源)にこの二つの義務がどのように一緒についているかご覧なさい。クルアーンを開くと同時に最初にあなたの目がいくのは:
それこそは,疑いの余地のない啓典である。その中には,主を畏れる者たちへの導きがある。主を畏れる者たちとは,幽玄界を信じ,礼拝の務めを守り,またわれが授けたものを施す者・・・(クルアーン第2章「雌牛章」第2、3節)
です。また(アッラーは)おっしゃいました:
これらの者は,主から導かれた者であり,また至上の幸福を成就する者である(クルアーン第2章「雌牛章」第5節)。
つまり、(アッラーへの)信仰がない人やきちんと礼拝やザカートを守らない人は導かれてもいないし至上の幸福を成就し得ないということです。
この後この雌牛章を読んでいくといくつかのページの後またアッラーの命があります:
礼拝〔サラート〕の務めを守り,定めの施し〔ザカ―卜〕をなし,立礼〔ルクーウ〕に動しむ人たちと共に立礼しなさい(クルアーン第2章「雌牛章」大43節)
また少し先を行くと、この章に下記のようなことが命じられています:
正しく仕えるということは,あなたがたの顔を東または西に向けることではない。つまり正しく仕えるとは,アッラーと最後の(審判の)日,天使たち,諸啓典と預言者たちを信じ,かれを愛するためにその財産を,近親,孤児,貧者,旅路にある者や物乞いや奴隷の解放のために費やし,礼拝の務めを守り,定めの喜捨を行い,約束した時はその約束を果たし,また困苦と逆境と非常時に際しては,よく耐え忍ぶ者。これらこそ真実な者であり,またこれらこそ主を畏れる者である(クルアーン第2章第177節)
またその先の食卓章に何が書いてあるかご覧なさい:
誠にあなたがたの(真の)友は,アッラーとその使徒,ならびに信仰する者たちで礼拝の務めを守り,定めの喜捨をなし,謙虚に額ずく者たちである。アッラーとその使徒,と信仰する者たちを友として助ける者は,アッラーの1党で,必ず勝利を得る者たちである(クルアーン第5章「食卓章」第55・56節)
信仰者の特徴は礼拝とザカート
この素晴らしいクルアーンの節に1つの大きな(イスラームの)原則が述べられています。最初この節で、信仰者は礼拝をしザカートを出す人だけで、この2つのイスラームの柱から顔を背ける人々の信仰宣言こそ嘘である、と分かります。またこの節から、アッラーとその使徒と信仰者の1つの党があり、信仰深い者は皆と離れてこの党に加わり、もひムスリムが、たとえ父であれ兄弟であれ息子であれ、隣人であれ同郷者であれ誰であれ、この党の外にいる者を自分の友とし、その者を愛し支援するのなら、そのムスリムにアッラーが支援することをお好みになられるなどという望みは持ってはいけない、ということが分かります。最後にこの節から、信仰者は一心にアッラーとその使徒と信仰者のみを自分のワリー???・支援者・友人・同胞にする者のみが勝利を得る、ということが分かります。
(続き「ザカート:イスラーム同胞愛の基本」は次回、インシャーアッラー) |
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最終更新日 ( 2009/09/30 Wednesday 15:09:15 JST )
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