人々をアッラーの許に呼び、善行をなし、「本当に私は、ムスリムです」と言う者ほど美しい言葉を語る者があろうか。 (41-33)

Islamic Circle Of Japan

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スクール

千葉県行徳
ヒラーマスジドにて
月曜から金曜日まで毎日
5:30pmから8:30pmまで
内容:クルアーン、英語、
イスラーム学習
詳細は
ジャミル アハマドまで
090-3574-9812

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クルアーン読誦(第78~114章)と日本語意訳

クルアーン読誦(第1章)と日本語意訳

クルアーンより

信仰する者よ、あなたがた以前の者に定められたようにあなたがたに斎戒が定められた。恐らくあなたがたは主を畏れるであろう。(クルアーン,2-183)

ハディースより

イマーム・アルブハーリーが教友アブドッラー・ブン・アッバース(アッラーのご満悦あれ) によるハディースとして伝えるには、預言者ムハンマドさま(アッラーの祝福と平安あれ)は次のように言われたという。
「もし私がウンマの中から一人友を選ぶなら、アブー・バクルを選んだでしょう。でも彼はむしろ私の兄弟であり、同志です。」

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日本人ムスリマのハッジ日記 プリント メール
2009/10/04 Sunday 10:24:13 JST

まえがき
アッサラームアライクム
2003年2月21日早朝、戻ってまいりました。異常なまでの眠気とサウジ滞在中にのどを痛め咳におそわれていましたが、昨日風呂に入ったこともあり、回復しつつあります。
ハッジに行けてよかった!というのが私の正直な気持ちです。
私たちのグループはインド人男性のサリームさんという方をリーダーに、2歳の女の子を含めた12人で構成されていました。
それぞれのメンバーがハッジに参加できるかどうかの不安(健康のこと、子供を置いて行く人、連れて行く人、仕事の休暇の問題)を抱えていましたが、すべて結果良好で、チャンスがあれば「行くべき時」なのかもしれません。
浦島太郎の逆バージョンとでもいうのでしょうか、とても不思議な異空間、異文化を経験したため、『たった16日間しか、日本を不在にしていなかったこと』がいまだに信じられないでいます。とても濃い時間でした。

2月5,6日
ジェッダ空港ではハッジターミナルというところでイミグレーションをしたのですが、順番という概念がそこには存在しないことを痛感しました。パスポートを振り上げ「ジャパン!」とアピールしてみたところで、私の青いパスポートは係官の目に留まってくれず、先に関門を突破したグループの仲間に腕を引っ張ってもらい、早い順番に手続きを終えることができました。招待旅行だから特別な便宜でもあるのかと思っていたのだけれど、この大混乱では、そんなものは通用しようもありません。その後、私たちの世話をしてくれる若いアラブ人にパスポートを没収され、いつ帰ってくるともわからない彼を待ちながら、空港の外で食事を取り、数時間後に用意されたバスでメッカに向かい、ホテルには午前2時に到着しました。少し寝てからファジュルの礼拝をしに、カーナカーバへ向かいました。大変な混雑でモスク内に入れず、地下にあるバス停留所から続く階段の途中に段段となり、おのおのがジャナマーズを敷き、とても危険な状態で初めての礼拝をしました。人々が立ち去るのを待って(しかしそこにはまだたくさんの人がいるのだけれど)タワーフとセーヒー(ウムラ)をしました。暑くなり始める前に。
大混乱の中、ナッファルの礼拝をした時、私のお気に入りの靴の片方をなくして今いました。

話は前後しますが、メッカで私たちに用意されたホテルは24時間いつでも聖モスクまでバスが出られる体制になっていて、しかも5分ぐらいで到着できる距離にあるので、大渋滞の時に、徒歩で行き来するにしても片道15分ぐらいの至便さでした。
部屋は男女別々で、同じフロアの目と鼻の先だったのですが、用事があれば電話を使えるので男性陣との連絡にも不便さはありませんでした。なによりも同性の気安さがうれしうて、世代をこえた合宿生活では、およそ宗教とはかけ離れた話題も含め盛り上がってしまいました。そして食事はおいしく、朝、昼、晩、食べ放題のバイキングでは、サラダ、デザート、果物も充実していました。パキスタン料理のように油や香辛料を多用していないアラブ料理はクセがなく、日本人女性にもパキスタン人男性にも好評でした。当たり前だけれど、当然すべての食材がハラールだから、選択したり、ガマンしたりする必要がないので、心身ともに満足感を得ることができました。食いしん坊はたらふく食べた後も、皿にケーキを盛り付け、部屋に持ち帰り、各フロアに常設されているセルフサービスのお茶やコーヒーといっしょに楽しんだものです。

余談ですが、男性はドバイ空港で例のあの白い生地で身体を覆い、ビーチサンダルに履き替えて、イフラームという清浄な状態に入りました。女性は清潔な衣服をまとい、頭髪を隠し、履物は靴でもサンダルでもよく、同じくイフラームに入りました。また、ハッジのやり方にも数種類あるそうで、私たちはタマットウ式というやり方で行いました。


2月7日
ハッジを明後日に控えた私たちの合言葉は”体力温存”でした。聖モスクのジュンマの礼拝に間に合うように、早朝タクシーに乗って、ヒラー山とハッジで訪れることになるミナ、ムズタリファ、アラファート、ジャムラを下見に行きました。当日は人に埋め尽くされ、何がなんだかわからないで終わってしまうでしょうから。
ヒラー山には白いイフラームを来た人が列をなして登っていくのを見ました。野町さんの写真集「メッカ」にも書いてあったかもしれませんが、サウジ政府は登山を認めていません。ヒラー山をありがたがって間違って崇めないためです。リーダーもあくまでもここは”歴史的場所”であることだけを説明し、その場を後にしました。
登山しなかったのは、体力温存の理由だけからではなく、”聖者詣で”をしてしまう誤りを犯さないための措置だと私は思っています。車に引き返す私たちの横を杖をついた老婆2人が山に向かって歩いていったので、彼女らの熱意にはビックリしました。夫は登山できなかったことに物足りなさを感じたようでした。
ミナやムズタリファにはクーラーつきの白い三角屋根のテントが規則正しく、広がっていました。”ここからミナ” ”ここからムズタリファ”と大きな看板が掲げられていて、ミナもムズタリファも隣り合っていたのは、巡礼に訪れる人数が膨大なので広大な範囲になったためでしょうか。
いたるところ警備が厳重で、普通の人は立ち入ることができなかったのでしょうが、「日本から来たニュームスリムだ」と伝えると入ることが出来ました。
アラファートの丘では、40歳になられた預言者(彼に平安あれ)が大勢の信者を前に別れの説教をしたとされています。彼が立っていたとされる丘の頂上には石が建っていて、聖者崇拝を毛嫌いしている私なのに、とりあえず他の人がやっているように石に手を触れたとき、ありがたいと感じていしまいました。私もサウジアラビアで40歳の誕生日を迎え、ハッジができたこともあり、思い入れがあったのです。でもただの石なんですよね。
石投げをするジャムラは地下と地上階の二重構造になっていて、私が訪れた地下の方は、大人が手を広げてつないで囲んだとしても、10人も要らないような囲いの中に、石の塔が立っていました。こんなせまいところに何万、何十万の人が限られた時間内に押し寄せるのだから、事故が起きて当たり前だと思いました。

観光が終わり、聖モスクに戻ると、ジュンマの礼拝まで1時間もあるというのに、モスクに入りきれない人たちが道路上にジャナマーズを敷いて、場所取りをしていました。道路上に陣取ったグループと別れて、リーダーと夫と私の3人は、『どこかに場所があるはずだ』と人をかき分けてモスクに入りましたが、結局、3階の屋上に登るはめになってしまいました。日陰の場所はすでになくなっていました。細いポールによってできる影に沿ってジュンマの礼拝を待っている人や日なたの人はジャナマーズを頭からかぶり、影をつくっている人がいました。やっとの思いで上がってきた私たちも、階段すら人で埋め尽くされているので、この屋上から動けない状況になってしまったので、しばらくは日陰に近い日なたで座っていましたが、白い大理石がまぶしくて、目も開けられませんでした。高級な大理石なので石が熱くなることはありませんでしたが、あまりの強い日差しに身体が参ってしまいました。リーダーが日陰にいる人たちの間に場所をみつけてくれたので、強引にいれてもらい、礼拝の時を待ちました。礼拝が始まり、サジダをした時にカラフルなジャナマーズが白黒に見えたのは、熱中症のせいでしょうか?
道路に陣取ったグループは日傘を買うことができたそうですが、周りの人がたくさん傘に入ってきて、それはそれで疲れたそうです。たった1時間日光に当たっただけで、私たちは体調を崩してしまったのでした。
冬で涼しい1番良いといわれたこの季節の、太陽に。


2月8日
体力温存のためというわけでもなく、よく眠りました。アザーンが聞こえないので日中の礼拝の時間を寝過ごすこともありました。部屋は3階だったのですが、誰からともなくカーテンを開け放すのは良くないと思い、薄暗い部屋で過ごしていたため、また部屋に掛け時計がなかったせいもあって、熟睡した後は、夕方なのか早朝なのか、わからなくなっていました。たった5時間の時差なので、きっと私たちの体内時計が暑さによって、狂ってしまったのでしょう。
明日にハッジを控え、自由行動ということになり、日が沈んでから、マグリブの礼拝をモスクで行い、買い物を楽しんだりしました。あんなに寝ているのに食欲はたいそうあり、礼拝して、食べて、寝て・・・・の繰り返しでした。

2月9日
50人乗りのバスが私たちのために用意されていました。招待客はそれら10台に分散してミナに向かいました。全員が揃うまでいつも1時間以上の時間がかかり、私たちはいつも待たされてばかりいました。道路は渋滞していたのですが、それでも私たちは恵まれていました。パトカーや白バイに先導されて、特別な道路を走ることもできたからです。クーラーも効いていたので、窓を開け放しにして、ギュウギュウ詰めになっている人や、車の屋根に乗っていて渋滞に巻き込まれている人たちを思ったら、1時間や2時間待つことになっても不平は言えません。
ミナのキャンプ(クーラーつき)は入り口から右は男性、左は女性と分けられていて、電話のように相手を呼び出す手段もないので、荷物は事前に男女別々に持っていかないと不便が生じます。私たちのテントには40人分の布団が敷かれていて、早いもの順に場所を確保していいようになっていました。日本人は私たちだけでした。入り口近くにトイレとウドゥーをする場所、洗面所があり、数も十分足りました。水も豊富でした。掃除をしてくれる方もいらして、清浄な状態でした。礼拝はテントの中で集団でしました。食事はホテルから持ってきたようで、やはりバイキング方式でした。初回は食べ物を得るために大勢が一気に押し寄せて混乱しましたが、次回からはそれも改善されました。

2月10日
ファジュルの礼拝の後、荷物を持ち、アラファートに向かいました。野町さんの写真集では日傘をさした男達が山に登り、日に焼けながらウクーフをする所です。昨日は平穏に済んだので、「今日こそは苦行だぞ」という覚悟をしていたのですが、男性にも女性にも大きなひとつのテント(クーラーつき)が用意されていて(布団も敷かれていた)、パルダ(幕)で仕切られていました。男性はズフルとアスルの礼拝をするためにモスクまで大勢の人たちと共に、徒歩で行ってきましたが、女性たちはそのテントから出ることもなくドゥアーをしたり、礼拝をして時間を過ごしました。用意した日傘も出番もなく「こんなにラクでいいの?」という感じでした。日暮れを待って、来た時と同じバスに乗り、ムズタリファという荒野に向かいました。私たち招待客が夜を明かす場所は、屋根のない、派手な布で男女に分けられた広場でした。
荒野には絨毯が敷かれていて、布団も毛布も用意されていました。アラファートを出るときに歯磨きセットとともにマスクを渡されていて、ここで過ごすための気の利いたプレゼントだということを知りました。
就寝前にジャムラで使う小石を拾い集めました。悪魔に投げつけるために探すので、無意識のうちに大きな石を集めてしまったり、とがった石を集めたりしていたので、外国人のムスリマから注意をされてしまいました。ひとつの塔につき7個投げられるので、3塔分で21個集めるとか、49個とか、70個とかいろいろな情報が錯綜していたので、多めに集めておきました。夜遅く、いいえ早朝まで近くの道路は渋滞していました。

2月11日
寝るときにマスクをしていなかったので、目が覚めた時に声が出にくくなっていました。風邪というよりも細かい砂埃のせいだと思います。早朝、バスが来るまでの間、道路に出てみると、絨毯が敷かれていたのは私たちの場所のみでした。そのほか見渡す限り、ただの荒野であちこちにダンボールの切れ端やビニールシートが散らばっていました。
私たちはバスに乗り、メッカに向け出発しました。ハッジの行事としてのタワーフとセーヒーを混雑するまでの間に終わらせるためです。二度目のタワーフとセーヒーですが、相変わらずの混みようでした。タワーフよりもセーヒーというサファーの丘とマルワの丘を上り下りる時の人のぶつかり合いはすさまじかったです。そこから抜け出す人を除いて、全員が同じ方向に進むのですが、曲がる時のカーブの違いと足場の悪さが原因で混乱が生じるのだと思います。
ホテルで休んだ後、バスに乗り、ミナに戻りました。

2月12日
ミナでファジュルの礼拝をした後、再びメッカに戻りました。午後3時にジャムラ(石投げ)へ向かうバスが出るので、それまでの間、買い物をしました。
メッカはウルドゥー語ができれば買い物に不自由はしません。『日本から来た』ということがわかると彼らはたいそう喜んでくれました。だからといって大幅な値引きに応じてくれるわけではありません。品物も増えたこともあり、カバンを夫と買いに行きました。アフガニスタン人の店で50リアル(1リアル30円)でした。引きながら歩いていると「どこで買った?」と聞かれたりしたので、それなりにデザインの良いスーツケースでした。ゾホルの礼拝のため、モスクに着いたときには、カバンの底についているはずの部品が外れていて、まっすぐに立てることができなくなっていました。お店から10分ほど引いてきただけで、壊れてしまうなんて。粗悪品には気をつけてください。

ジャムラに向かうためにバスに乗り込んだものの、やはり全員が集まるのに時間がかかってしまい、出発時間は大幅に遅れてしまいました。『石投げの時間に間に合わない!』と詰め寄る人もいましたが、バスは動きませんでした。定刻を過ぎて発車。相変わらずの渋滞。結局ジャムラに着いたときには、石投げの時間は終わっていて、いるのはそこで寝泊りをしているインドネシア人の大きなグループと私たち招待客ぐらいでした。
そこで、私たちは「14人の方が亡くなられた」ということを聞きました。車がひっきりなしに通る道路を渡り、階段を降り(何の目印もなしに階段が始まるので、大勢の人が足元を見ることもできずに降りるのは危険だと思いました)地下の石の塔に向かいました。
石の塔の囲いの中で、ちいさなブルドーザーが山のように詰まれた小石を掃除していました。囲いの際に立って、小石を投げたのですが、ブルドーザーが石の塔の前を行き来するので、気になっていたためでもないでしょうが、一個も目の前の石の塔に当てることができませんでした。集めた石が小さすぎたためかもしれません。男性陣は大きめの小石を投げていました。
そして、ミナに向かい、夜を過ごしました。

2月13日
ミナでファジュルを終えてから、いつものようにメッカのホテルに戻りました。過ごすべき3日を終えた今、もうここに戻ってくることはありません。

ミナでの楽しみは、大きくて広いトイレで、普段は見ることのできない「コートの下」を垣間見ることでした。ピチピチのTシャツにキツキツのジーパンといういでたちの美しい女性もいました。モデルと見まごう美しい女性がコートを着て、ヒジャーブをすると、もっともっと輝くような美しさになりました。肌を露出しなくても、ノーメイクでも髪をスカーフで覆っても、女性は信仰があると美しくなれるのですね。

もうここには戻れないとなると、よく周囲を見ておきたくなりました。と、道路に、『毛皮?動物が轢かれたのかしら?え?くび?』・・・・路上にあったのはヤギの首とクルバニで肉を取ったあとの毛皮であることに、少ししてから気がつきました。
道路の高架下とそれに続く広大な空き地に大勢がビニールシートを敷いて、野宿をしている人たち(アフリカ系)が持ち込んだのでしょうか、大きな鍋に湯を沸かしていたり、包丁を何本も使って巨大なミンチの山を築いていたり、その横にはあちらこちらから運び込まれた、おそらくは食用に適さない贓物などが積まれていました。バスの窓越しにも彼らの喜びや熱気が伝わってきました。
私たちのクルバニは多分お金を払っただけで、私たちの目の前で行われたわけではないし、肉は例のバイキングでかなりの量を食べていたので、肉を食べることのできることのありがたみを忘れていたかもしれませんが、彼らのイキイキした様子は新鮮でした。バスの中の私たちより数段も喜びに満ち溢れていたでしょう!
彼らのハッジは強烈で、そして今この瞬間が喜びの極みなのでしょう(苦労した分喜びが大きいのは当たり前ですよね)。
高架わきに沿って流れる透明な小川の川底は赤茶の筋がほとんどを覆っていました。間接的ではありましたが、本来のハッジの醍醐味を感じることができました。
一旦、ホテルに引き上げてから、男性陣のみ石投げに出向きました。
石投げは当初、女性陣も現場に出向き、あまり混雑がひどいようなら、バス脇で待機するという案もありましたが、女性陣はホテルで過ごすことになりました。明日の早朝午前3時に別れのタワーフをするための休養です。

男性陣は疲労はしていましたが、無事にホテルに戻ることができたことをアッラーに感謝して、私たちのハッジは終わりました。

別れのタワーフ
午前3時、別れのタワーフをしました。これを終えたら、メッカを立ち去らなければなりません。私はタワーフが好きです。マグリブの後のタワーフも早朝のタワーフも暑い陽射しの日のものでも。おそらく私が寝ている間も同じように渦が巻いている。カーバを中心にいつも静に渦を巻いている。
中に入ってしまえば、そこではぶつかり合っていたり、スリが財布を狙っていたり、泣いていたり、詫びていたり、懇願していたり、微笑みあっていたり、靴やサンダルや安全ピンや小銭が落ちていたり・・・のけっして静ではない渦なのですけれど。
いつしか自分のドゥアー(願い事)も7週のあいだともなると尽きてきて、
いつの間にか泣きながらタワーフしている人の願いが受け入れられるように祈り、ここに来ている人の願いがアッラーに認めてもらえるように祈り、ここにいない世界中の人の幸せを願いました。
渦をまきながら。

私たちはマディーナに向かいました。

あとがき
ハッジ行きが決まってから、せめて一度くらいは礼拝をしようと思ったのに、それすらもできませんでした。
「私なんかが行っちゃっていいの?」程度の私は「ハッジに行って人格が変わっちゃったりして」という捨てゼリフを残して、2003年2月4日日本を発ちました。

私はそこでよい意味もわるい意味も含めてありとあらゆる人間を見ました。そして私はイスラム教徒を見ないことにことにしました。私はイスラムの教えのみに従おうと思いました。私は自分の常識では許せないイスラム教徒の悪口を言うことでイスラムの教えから離れようとしていたことに気がつきました。自分が怠惰で礼拝をしないのに、それすらも一部の不道徳なイスラム教徒のせいにしようとしていたことに気がつきました。
私の人格はハッジ後も変わりませんでした。ですから、おそらくはこれからも一部のイスラム教徒の悪口を言うことはあるでしょう。しかしその人たちを理由に私はイスラム教から離れないでしょう。インシャッラー。
礼拝することで心が落ち着くようになりました。
自分が好きになりました。
相変わらずのひねくれモノで確定申告の計算が合わないことを電卓のせいにしてしまいました。
あごの下にうっすらと肉がつき、何本かのズボンははけなくなっていました。
終。

最終更新日 ( 2010/04/29 Thursday 15:51:13 JST )
 
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